小学校最後の年に京都から東京へ来てすぐ、「ありがとう」の東西差についてノートに書きつけたことがあった。「ございます」を付けておけば、とりあえず丁寧、付いてないのはぞんざい、という周りの感覚に、子供らしい違和感があったんだろう。
「さゆり」を読んでいると、京都イントネーションを思い出すわけだけど、これは自分の子供のころに形成された感情には非常に「のる」言葉で、ふだん使っている言葉とは違うんだと改めて認識させられる。ふだんの標準語は、理屈が勝っていて、スタティックで、これで感情を何とか表現しようとするのがそもそも難しいんだな、と思う。
実際には「さゆり」に出てくる祇園ことばは京都弁とも違っていて、感情の言葉でもありながら、それをオブラートにくるむ理性の言葉でもあって、なんや難しいなぁ、と思うが、これってつまり「感情を扱うビジネス」で使う言葉だからそうなるんだよねぇ、たぶん。
そう考えるとそもそも、なんでそんなに「情」と「理」をハッキリ分けちゃうんだろう私、ということになるんだけど、やはり私の中でどこかで分けない とやりくりがつかないところがあって、それはもしかすると、元々「うち」と「外」とで言葉の使い分けをしてきたところから始まっているのかもしれない。し かも、大人としての関西弁、京都弁をろくに育てられずにきてしまっているので、余計にややこしい。ふだんものを考えるときは京都弁で、と決めればいいとい うものでもないわけだ。
深いところにある大切なことを、まっすぐに、伝わるように伝えるのは、それでなくても難儀なことなんだけれども、これも訓練なんでしょうかねぇ。気 持ちが大きく動くときほど、伝わらなかったり、逆さに伝わったりしているような。「英語」と「日本語」とか、比較的小さい頃から使い分けをしてきた人なん て、どうされてるんでしょう?
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