予期されるリスクに対する対応の仕方が極端だと自分でも思います。
旅行なんか行くときに、帰るときに悲しくなるだろうから行きたくないなー、とかアホなぐらい臆病だったり。そのわりには、勝てる算段がないのに、超ノーガードで打ち合って死にそうな闘いをいつの間にか闘っていることもあります。
昔よく行っていて、店員さんとも仲良くしていたイタリアンがなくなってたのを最近知りました。チェーンだったけど、そういうルーティンを超えてお店の人たちががんばってた。でも、人が変わり、店が変わって、結局なくなってしまったようです。そうやって、みんな変わっていく。今あるものも消えるのが見えるような、自分自身も風にあおられてボロボロと朽ちて溶けていくような、世界がゆっくり崩れるような感覚を感じました。と同時に、それを崩しているのは自分自身だということもなんだか理解していた。つまり「世界が」崩れているのではなくて、「私が」世界の中に崩れを見ている。
世の中はそういうものだと、ひねた意味でなくて、まっすぐに受け止め(た上で対応し)たいのですが、それが難しいときもあります。大人らしく、リスクマネージする自分になりたいけれど、それも難しいときもある。だから、せめて少なくとも、すれた態度でそういう変化を捉えたり、そんなときに「どうせ」という言葉を使うことだけは避けなきゃいけないよね。と思いました。
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